第二十九話
彼がグレイスと名乗る前のことだった。
主目的が拷問と言われても納得できるような、重苦しい扉。
その前で、奴隷の服を着た蘇葉が、不思議そうに後ろを振り返った。
「ヴァル?」
「……貴方、記憶が戻っていますよね」
ヴァルと呼ばれた男が、蘇葉の後ろで立ち止まっていた。
彼は奴隷服ではなく、最高ではないが地位のある者の衣装だった。
蘇葉が呆れたようにため息をつく。
「国にはもう帰れない。だったら“良い事”をした方が寝覚めも悪くないだろう。
ほら、さっさと行くぞ」
そして彼は自ら、鎖のぶら下がった手で扉を開いた。
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フロール国、王家の城。
ユマと影武者は、レリーフに守られながら隠し階段を駆け下っていた。
「心話術をパパに飛ばしてある。
ペリーさんが来てくれるみたいだけど、団長もドラグーンだ。こっちにドラゴンを呼ばれたら民が危ない。
しかも城には多分、戦える人間がいない。
前線にどうにかして合流するぞ!」
「は、はい……!」
そうして走り続けた二人は、やっと庭園へ出られそうだった。
しかし突然、すぐ前の天井が崩れ落ちる。
舞い上がる瓦礫で、二人は足を止められた。
ユマは影武者を自分の後ろに押し込み、顔へ飛んできた紫色の細い光を避けた。
「そんなの有りかよ……!」
頬に一本血の筋をつくったユマが、舌打ちするように言った。
間違いなく、レリーフは追っ手の道を阻んでいた。
だがそんなことはお構いなしに、蘇葉が床に穴を開け垂直にやって来ていた。
「レリーフは王族しか動かせないからな。お前の発言を信じよう」
「よく知ってんなそりゃどーも!」
ユマがパレットを構えると、蘇葉は一つ息を吐いた。
「上に逃げてくれれば、手間ではなかったんだが」
その時、真っ白なたてがみと、いななく蹄が彼の前に立ちはだかる。
かろうじて、蘇葉は視線を逸らした。
「一角獣……!?」
その隙に、ユマがレリーフで彼だけを確実に分断する。
壁に阻まれた蘇葉は即座に、かつ、神獣への警戒も怠らず紫の光を放った。
しかし砕かれたレリーフの向こうには、誰もいなかった。
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フロールを川のように横断する森。
白磁の一角獣が、王族の城から飛び込み、風を切って疾走していた。
「助かったぞ、ラスク!」
話しながら危なげもなく騎乗するユマの腰に、影武者の少女がしがみついていた。
ラスクが橙の瞳をそちらへ向ける。
「ああ、オイラも信じがたいが、騎士団長がフェリクシアのスパイだったみたいなんだ。
おそらくパパへの負荷を狙ったんだろう」
後ろの少女の手が外れないよう、ユマは自分のものを重ねた。声が少し沈む。
「彼女はオイラの影武者だ。ずっと身代わりにしてしまっていた」
ラスクが走りながら軽く鼻を鳴らした。
「ありがとう。訓練の森まで頼む、そうすればペリーさん、が……」
言いながらユマの身体がぐらりと傾き、そのまま影武者ごと落下した。
「きゃあっ!」
突然重みが消え、ラスクは慌てて人型に変身すると少女達へ駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「う……ひ、姫さま……!」
地面に叩きつけられた影武者は、なんとか身を起こそうとするが、痛みにうずくまる。
一方のユマは動かず、瞼もほとんど開いていなかった。
「すまな……ねむ……」
「眠い!?」
その時ラスクの後ろに、花のように可憐な薄紫色が降り立った。
頑強な鱗——蘇葉のドラゴンだった。
竜から降り立った蘇葉がユマを一瞥する。
「気の毒に……私のカラーには催眠作用がある。
スペクトルが近いから効きが悪かったな」
「団長……本当に裏切っていタんだナ」
ラスクがビキビキ音を立て、身体の半分を神獣のものへ変えた。
森が悲鳴をあげる。
ドラゴンも大きく吠え、そのまま標的へにじり寄った。
しかしラスクは一切引かずパレットを向けている。
蘇葉はドラゴンにその場を任せ、悠然と、ラスク達を挟み撃ちにできる位置へ歩いた。
「混血が実在するとは驚いた。私にはその姿の方がありがたいが」
影武者は呆然と状況を見ているだけだった。
すると彼女の前に橙色の光の壁が現れる。
それはラスクの防御陣だった。ユマと影武者を守るように張られ、さらに二人の周りには橙色の花が少しずつ咲き出した。
「ユま! 起キて!」
ラスクはドラゴンを牽制し続けているせいで動けない。
蘇葉は防御陣へパレットを向けた。
「花呼びもするか……技術は認める」
紫色の光が橙の壁を割った。
蘇葉は霧散していく光の向こうに、泣きそうに彼を見上げる影武者と、その柔肌に滲む血を見とめた。
「邪魔をしなければ危害は加えません。
……貴方を傷つけたくない」
「…………!」
蘇葉がユマにパレットを向ける。
彼の横顔を見つめる影武者は、唇を震わせ、拳を握りしめる。爪の間に砂が詰まる。力を込めた足はズキズキと痛む。
しかし彼女は、両腕を広げ蘇葉の前に立ちはだかった。
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フェリクシアに佇む、低い円柱の建築物。横広で背が低く、雨風に晒された金属のような灰色をしていた。街並みから離れていることも異質さを際立たせている。
その建物に唯一ある、主目的が拷問と言われても納得できるような、重苦しい扉。
宰相はそれを慣れた手つきで開いた。
そして後ろにいた二名の信者を先に通した。
「丁重に扱いなさい」
信者達は恭しく一礼すると、赤い装束の捕虜を運び入れた。
運ばれた男——雅は先程の戦闘で気を失っていた。手足はジャラジャラと鎖で縛られている。
信者の後についていた宰相が足を止め、ふと顔を上げた。
「おや、晴れてきましたね」
部屋と呼ぶには広大な空間へ、声が溶けていった。
そこは吹き抜けのように最上階まで繋がっており、天井一面は丸ごと窓にされていた。代わりに側面は分厚い壁のみ。
陽光が照らす床には、隅々まで細かい陣が描かれ、さらに上から保護陣が施されていた。
綿密さでは、ユマにかけられていた呪いと良い勝負だろう。
信者は雅を陣の中央に置くと、またも恭しく頭を下げて退出した。
そして宰相は、あらかじめ陣が刻まれたパレットを取り出すと、壁に青い光を展開した。
「さて、いかがでしょうか」
ワープ陣から年老いた男が数人ぞろぞろと現れる。
全員が宰相と同じような白く、繊細な装飾があしらわれた高貴な衣服を着ていた。彼と異なる部分は、縫い付けられたいくつもの宝石だった。
男達のうち一人が宰相へ言った。
「ほう、これがフロール第一貴族の子息か。褒めて遣わす」
「有り難き幸せ。
早速ですが国導院の皆様、お手を煩わせますがどうぞ配置へ」
宰相に促され老人達が裾を引きずって位置につく。
床の陣は円形だが、枝状に伸ばされた部分が七箇所あった。
国導院と呼ばれた六人がそこに立つ。
宰相もパレットを袖口にしまい、何も刻まれていないものを新たに取り出す。枝のうち空いている一つは彼の持ち場だった。
その時、外からの光が木漏れ日のように翳って、戻る。
しかしこの建物の上に植物などない。
宰相が瞬時に天窓を振り返る。
逆光に眉根を寄せる。
光はなぜか大きくなり、天窓が割られた。
宰相が緑のゴーグルを認識したと同時に、彼の首元へ赤い一閃。しかしそちらには冷静に防御陣で対処をする。
舌打ちをしたのは——目を覚ましながら、ずっと心話術を飛ばしていた雅だった。