ダミーのある日の話
※犬が死にます。犯人は殺していますが、苦手な方はこの話を飛ばしてください。
メモリーの動向には関わらないのでストーリーは問題なく追うことが出来ます。
「うわっ。なんだよあいつ」
「くっせー!」
「一人でしゃべってんぜ!」
裕福な家庭に生まれ、何の苦労も知らず甘やかされて育ったのだろう。仕立ての良い服を着た子どもたちが三人ほど、遠巻きに囃し立てた。
彼らが指差す先は、ごみ捨て場の近く、誰も寄らないような薄暗い路地。
そこに、子どもの騒ぎ声が聞こえていないかのようにじっと、一人の男が座り込んでいた。みすぼらしい上着のフードを被り、薬でも入っているかのように空中へつらつらと話していた。
「最初はさ、軽い興味だったんだよ。僕とまともに渡り合えるなんて珍しいから。
そうしたら、食餌要らずのメモリーだって。自分の故郷の人間全員から記憶を奪って出てきたから、当分、下手したら一生何も食べなくていいんだって。
すごいと思わない?
生命は、人間は、生きるために他の命を得る。そのために日々を過ごしている。
発症者だって例外じゃないと思っていた。僕も食餌が要る。
でもメモリーは違った。
衝撃だったね。
彼のことが知りたい。どんな目で、どんな風に世界を感じているんだろう。生きるために必死にもがかなくて良いなら、どこに命をかけているのだろう」
フードで隠しているのは、割れたガラスのように鋭利な眼光と、隈と煤でわざと汚した精悍な美貌。
彼こそ、魂喰いこと希代の役者、ヴェデリエル・ダンだった。
舞台から演技で殺すように、観客を魅了するために生まれた男は、両腕を天へ伸ばして胸の高鳴りを表す。
「そうは思わない? ベネッサ」
彼の側では、首輪をつけたビーグルが尻尾を振り続けていた。話を理解しているはずはないが、ランランと目を輝かせ主人を見つめる。
「……ああ、ごはんの時間だね。ベネッサ、ステイ」
ダンはのそりと立ち上がり、忠犬へ待てを言いつける。
了解、と言わんばかりにベネッサは座るも、依然として尻尾を振り続けていた。
「さて、僕も“食事”だ」
ベネッサを当面の拠点に残し、ダンは“食料”の調達へ向かった。
□■□
「ただいまベネッサ、ごはんにしよう」
ダンは自分の食後、遺体から抜いた金で買ったドッグフードの袋を抱えていた。
彼の拠点にはなぜか子どもたちが群れていた。
「げっ!」
「戻ってきやがった!」
よく通る地声と予想外に若かった“ホームレス”に、子どもたちはギョッとして散り散りに走り去った。
彼らがいなくなった後には、横たわるビーグル犬だけが残された。
「……やられたね」
ピクリとも動かないベネッサには、靴の跡と打撲痕が無数にあった。足も折れ、胸部も上下しない。
「馬鹿だなあ」
ダンは不要になったドッグフードをごみ捨て場へ投げた。
□■□
ディナーが近い時間。富裕層が集中している地域、その一画にある豪邸から悲鳴が上がった。
「きゃああああ! ぼうや!」
「男爵に連絡しろ! 賊が隣のご子息を!」
舞踏会でも開けそうな玄関ロビーへ、みすぼらしいホームレスが、傷だらけの子どもを三人連れて侵入した。
子どものうち一人は頭を掴まれながら歩かされていた。残りの二人は、ホームレスに足をまとめて持たれ、仰向けに引きずられていた。仰向けのうち一人は足が折れていたので絶叫していたが、もう一人は泣きもせず静かだった。
警備員が続々と集まり銃を向ける中、ダンは子どもの髪を引っ張った。
「ほら、どうしてこうなったか言ってごらん」
「いっ、いっ、いぬをごろじまじたあ……! ごめんなざいぃ……!」
「どうやって?」
「たたいたりけっだりじまじだ……! おばざんだずげでえ……!」
見るに堪えない光景に夫人が金切り声を上げる。
ダンは、勝手な発言をする“悪い子”の髪をさらに引っ張って戒めた。
「あのわんちゃんもやめてって言ってたよね? それなのにやめなかったのは誰だい?」
「ごめんなざい! もうじませんから……!」
「一回死んだら戻ってこないんだよ」
その時、警備員の後ろから使用人らしき男が勇ましく声を上げた。
「やめろお!
坊ちゃんになんてことを! 悪魔め!」
使用人は幅が広過ぎる階段の上、夫人の盾になるように立っていた。
血色が悪くなるようメイクを施したダンの顔が、さらに白ける。三文芝居を見せられたような彼は、掴んだままの髪を引き上げると少年の耳元で囁いた。
「どうしてあのわんちゃんを殺したんだっけ。食べようとしたんだっけ?」
「……ホームレスのっ、い、いぬだったから…………うえぇん……」
疑いもしない純粋なまでの階級差別。それがこの惨状を招いていた。
使用人が——おそらく正義感の強い性格なのだろう、明らかに怯んだ。
ダンはそれを一瞥する。
「英才教育より道徳の授業した方が良いんじゃない」
続けてその子どもに囁いた。
「君、自分の身代わりを一人選んで。そいつを殺すかわりにこの手を離そう」
大人でさえ絶句する提案に、子どもの呼吸が浅くなる。逃れたい恐怖と、自分が人を殺める恐怖がせめぎ合っていた。
「そいつは君のせいで死ぬけど、何もしてない犬をリンチして殺せるんだ。簡単だろう。
さあ指を差すんだ」
使用人がハッとしたように再度噛み付く。
「犬ぐらいでそんな卑劣なことを……!」
「犬“ぐらい”?」
ヴェデリエル・ダンは演じていた。腹の底で煮えたぎる本音を如何に強烈に、恐怖を与えて突き刺すかを考えて。だが今、浮かべる笑みは彼自身のもの——剣先のような眼差しにふさわしい冷えた嘲笑だった。
使用人を貫かんばかりの眼光で、ダンは続けた。
「子どもなら可哀想で、犬なら可哀想じゃないのかい? 牛は? 豚は?
命の重さに、違いなんてあるのか?」
そして静まり返る屋敷で、震える小さな手が勇敢な使用人を指差す。
ダンは心から軽蔑の笑みを浮かべた。
「ほら、君だって。死にに来いよ」
少年は全てにおののき泣いていた。
使用人は息をすることすら忘れ硬直していた。
夫人は意識を失った方が楽だっただろう。
警備員たちは誰一人発砲もできない。
無音の阿鼻叫喚。その地獄絵図を打ち破ったのは、同じくダンだった。
「冗談さ」
使用人の真横に、ダンが一瞬で現れていた。今から絞め殺すぞと言わんばかりに、使用人の首へ手をかけていた。
支えをなくし、髪を掴まれてた子どもは力なく倒れ、折れた足を放られた子どもの悲鳴が耳をつんざく。
「手を離すって言っただろう?」
人質は解放されたにも関わらず、誰も動くことができなかった。
屋敷の空気をことごとく支配するダンが、使用人の首から手を離す。そしてよく磨かれた手摺りに危なげもなく飛び乗ると、劇中のソロかのごとく、腕を大きく広げゆっくりと闊歩した。
「僕はヴェデリエル・ダン。魂喰いの発症者。
貴様らとは違い命を無為に奪いはしない。
件の犬は一匹。その分は償われた。よってそれを理由に残りの二人から命を奪う道理はない」
ようやく、打ち捨てられた子どもたちに大人が駆け寄る。
遅れて階段を降りた夫人から、息子の死を察した大絶叫が上がった。
ダンは彼らへ吐き捨てた。
「よく考えろ。自分がどうやって生きているか」
それは使用人を激昂させたが、今は夕食時だった。
「おのれ……! 未来ある子どもになんてことを!」
「一つの命を悪戯に奪ったのなら、一つの命で償うのが道理だろう。
理由なく奪っていい命があるのか?」
ダンが使用人の前に戻る。刃物のような目は弧を描いていた。しかし、奥底で絶対零度の闇が渦巻いていた。
「命の重さに違いがあるのか?」
ダンは使用人の胸元にトン、と人差し指を立てる。
“食餌”とされた男は膝から崩れ落ち、二度と起き上がることはなかった。