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アネモネ

 花言葉:無邪気 辛抱 あなたを信じて待つ


 平行都市“セコン”。
 横長な土地を持ち、機械工学が発達している大きな都市だった。比較的寒いセコンでは暖房が命綱であり、非常事態に備え西と東で対称となるように主要施設を置いていた。そこからの配管や配線が平行に張り巡らされているので、平行都市と呼ばれていた。
 夜が明けなくなってから、この街の人々の生活は大時計を基準に営まれていた。
 時計塔は都市の中央に位置していた。王冠を被ったようなデザインで、街で最も背の高い建物であり、全てが二つずつあるセコンの唯一の例外でもある。その頂点に君臨する大きな時計が、形だけの朝を示していた。
 ガーデニアからの馬車が、その麓で止まる。
 降り立ったアンカリアはおずおずとカズラを見上げた。
「カズラごめん。肩、痛い?」
『クチナシは警鐘感覚を付けられるけど、痛覚はない。道中ずっと爆睡されて驚いているだけ。図太くて安心するよ』
「ご、ごめん。感覚が音になるからうるさかったよね」
 アンカリアとカズラ、エリオットとプラナス。ルビー班とローザ班は合同で、夏の民との合流を目指していた。セコンはその中継地点にあたる。
 人間であるレインの休憩と、夜間は悪魔や異形との遭遇確率が上がるため、負傷やタイムロスを避けたい今回の任務では、一泊することとなった。
 アンカリア達はガーデニアの協力者が経営する宿に入った。
 宿は簡素だが、文字を読める程度の明るさが保たれている。電気は、東西の巨大な暖炉に薪を焼べて生み出されていた。
 一行は隣り合った部屋を用意された。基本的にクチナシとレインは、奇襲対策で相部屋になる。それとは別に単独で悪魔と遭遇しないようにする必要もあった。
 エリオットが欠伸をしながら片方の部屋のドアを開けた。
「お前らどうする? オレは寝るが」
「わたしは買い出しに行こうかな。水筒忘れちゃったし」
『ボクも探検したいし、付いて行くよ。カズラは?』
『エリオットを一人にするわけにいかないだろ。隣の部屋にいる』
 カズラはさっさと部屋へ入ってしまい、残りの面々は顔を見合わせた。
「寝るだけだがな……」


 □■□


 セコンの建物は密集している上にたいてい高く、コンクリートが剥き出しになった灰色のものが多い。しかし、機械仕掛けの人形や量産される菓子がショーウィンドウで輝き、寒々しい町に華を添えていた。
 行き交う人々も明るい色を着ていた。狭く寒い夜空の下で、精一杯生きている証のようだった。
 そんな中では黒尽くめの二人、アンカリアとプラナスは少し異質だった。
「いつもあんな感じなの。カズラはベテランだから、わたしに呆れてるのよ。この前も足引っぱっちゃったし」
 アンカリアは眉を下げて笑っていた。彼女の抱える紙袋には、まだ水筒は入っていない。念のため持って来たケースが邪魔になりそうだった。
 プラナスは、赤くなった鼻先をピンクのマフラーに埋める。耳障りな寒冷の警鐘感覚が少し小さくなった。
『アンはがんばり屋さんだよ。カズラのこともよくわかってるし、ここまで生き残ってるじゃない』
「わかってるのかなあ」
『きっとそうだよ。カズラって言い方とかキツいけど、アンに対してちょっと違う気がする。同じ班になって長い?』
「うん。わたしは試験合格してから、カズラだけ」
『やっぱり合ってるんだよ。嫌な奴とずっと組めるほど、カズラは器用じゃないよ』
 めぼしい看板を探し、二人は交差点で立ち止まった。近くの広場から、少年聖歌隊の歌声が穏やかに流れている。
 手前の車線に停まっていた赤い馬車が、信号旗の合図で進み出した。
「そうかなあ」
『きっとそうだよ。あ、見てあれ可愛い……アン?』
 プラナスの隣には落ちた紙袋とケースしかなかった。
『アン!?』
 彼が心話術で呼びかけても返事はない。
(この数秒で届かないほど距離が離れるなんて……!)
 嫌な予感しかしなかった。
 直後、彼の背後から轟音と悲鳴と、焦げた臭いが流れて来た。


 □■□


 立ち上る煙は遠く。
 細い路地を塞ぐように、真っ赤な馬車が真っ赤な髪の御者を乗せて停まっていた。
 馬車によって死角になった路地では、男がアンカリアを壁へ追いつめ、彼女の口を片手ですっぽり覆っていた。
 男は青い髪と、青く光る瞳をしていた。
「久しぶりだな、嬢ちゃん。アンだっけか?」
 男はプリム町での作業着ではなく、この町らしい暖色のワイシャツとコートを着崩していた。傍から見れば八重歯がチャームポイントの色男。まさか、東の大悪魔マクスウェルだとは誰も思わないだろう。
 アンカリアが殴る蹴るなどの抵抗を必死にするが、ビクともしない。
 それどころか、彼女は両腕を一纏めに掴まれ、あっさりと身動きを封じられてしまった。
「〜〜〜!!」
「怒るなって、殺さねえから。誘いに来たんだよ。
 人間が、百パーセントクチナシとして蘇ったら、嬉しくねえか」
 ぴたりと動きを止め、アンカリアは目を点にした。
 マクスウェルは自分を凝視する黒い瞳に気分を良くし、続けた。
「頭のいいツレがそういう研究をしてるんだ。そいつによると、オレや何人かの古株が直接手を下せば、自我を保つ確率が上がるらしい。
 まだ完全とは言えねえから、もう少し時間はかかるんだけどよ」
 マクスウェルは心底楽しそうに、惚れ惚れする笑みを見せつけた。
「アン、こっち側に来いよ。
 確実なやり方がわかれば悪魔にしてやる。そのためにちょっと協力してほしいんだ」
 押さえられたままのアンカリアは、できる範囲であたりを見回した。
 マクスウェルはくつくつと喉を鳴らす。
「脅しじゃねえって。誘いだって言っただろ。
 悪魔になれば死なねえし、殺されねえし、食事も“そんなに”必要ない、ってイテテテ」
 アンカリアは頭を振ってマクスウェルの手に思い切り噛み付いた。彼女の強い眼差しには、涙を携えた怒りが燃え上がっていた。
「“そんなに”ですって……!? あれだけ虐殺しておいて……!」
「ああ、それか。眷族が蘇る数はランダムだから、補充したい時は町一個やらねえといけないんだよ。
 手下が消されなければ、あんな面倒はしなくて済むけどさ」
「わたしたちのせいって言いたいの!?」
「そうじゃねえよ。みーんな悪魔になって、一緒に生きようぜっていう提案」
「……は?」
 彼女の瞳が絶望を目の当たりにしたように見開かれた。次いで、俯いたために煉瓦色の髪に隠れた。
 マクスウェルは、なぜかそれが酷く残念だった。覗き込もうと顔を寄せる。
 近づいたことで偶然にも、アンカリアの小さな言葉を拾った。
「そのために、何人苦しめるつもり……みんなが、ナルコがどれだけ……」
 アンカリアが顔を上げる。そして真っ直ぐ、絶望など消し炭にした瞳がマクスウェルを突き刺した。
「断る! Saltare!」
 アンカリアの腿から衣服を突き抜け閃光が迸る。彼女はホルスター内で銀の銃を全弾暴発させた。
 通常なら人間に害のない日光だが、黒いスカート越しに悪魔を停止させる光量。
 当然、彼女の足もただでは済まなかった。スカートの下で熱が直接皮膚を炙り、タイツが傷口を摩擦した。
 しかしアンカリアは崩れ落ちそうな身体に鞭打ち、全力でマクスウェルを突っぱねた。
 彼女が路地を飛び出した後は、不気味な変死体だけが佇んでいた。
 馬車で沈黙し続けていた御者が帽子を脱ぎ捨てた。
「おやおや、おいたわしい。あれほど言ったじゃないですか。呪文を使われると厄介ですよ、と」
 赤く長い髪を束ねた御者、二代目クロウはモノクルの奥を青く光らせていた。彼は、凄惨な有り様の主人へ近寄った。
 前半面が溶けたマクスウェルは、首から上がもう回復していた。
「……フラれた」
「ええ、ばっちり見てました。情報を与えて逃がしただけじゃないですか」
「別に困らねえだろ」
「筒抜けみたいなものですし、そうですね」
 クロウは従者らしく、マクスウェルの肩についた黒い砂を払った。背中や足元も整える。
 マクスウェルはされるがままだった。
「どうしよっかな、無理矢理でもいいんだけど」
「むしろそうしなかったのが不思議です」
「……なんでだろ」
「こちらが聞きたいです」
 主人の身なりを整えたクロウは最後に自分の手を払った。
 マクスウェルは宙を見上げ、後頭部を雑に掻いた。彼の逞しい体躯はすっかり元に戻っていた。
「いやなんつーか、謎だな。前のオマエを倒したの、あの子らなんだけど」
「意外とお転婆なレディですね。タイプでしたっけ?」
「んー……痛い目見せたいとかは特に思わねえけど。あ、嬲るのはイイけどその後甘やかしたい。とりあえずあんまり嫌われたくねえ」
 クロウはついに眉間に皺を寄せた。
「なんですかそれ」
「わかんねえ」


 □■□


 その頃、賛美歌が悲鳴と叫喚に変わった広場で、プラナスは異形と戦い続けていた。
(くそ……!)
 新緑色の瞳が忌々しげに歪む。
 姿を消した少女のケースを拝借し、彼はひたすら銀の玉で異形を退けていた。
(早く合流しないと……! 銃はとっくに弾切れだし、銀の飴(シルバーキャンディ)も残りがないぞ……!)
 彼はそれでも懸命に異形を滅し、退け、住人を逃がそうとしていた。
 その時、一際大きな絶叫が響く。
「痛い、いたあああああああ! たすったすけてえええええ!」
 異形を統率しているであろう悪魔が、一人の子どもを食い散らかしていた。
 その子どもの瞳は痛みと死の恐怖で歪んでいた。
「ああ……あああ……あ、あ…………」
 涙と鼻水と、諸々の体液を漏らした少年は、プラナスを見つめたまま息を止めた。数秒前まで確実に生きていた瞳が、鏡のように無機質に金髪の青年を映していた。
 絶命を目の当たりにしたプラナスの前に、最期になるはずだった光景がフラッシュバックした。
 悪魔に臓腑を弄ばれる激痛、思考を埋め尽くす恐怖、どんなに叫んでも覆らない絶望、全てが鮮明に甦る。
 そしてそれを肴に、悪魔はほくそ笑んでいた。
 プラナスの中で、何かが切れた。
『Iubeo Prunus 強制解除』
 プラナスは、人格の変わったような低い声だった。彼が唱えると、その瞳は黄緑の鋭い光を帯びた。首元から文字がぎこちなく浮かび上がり、文字通りの紆余曲折を経て一本の黒い鞭となった。
 それは禁忌とされている、クチナシの“自己解除”だった。
 途端にプラナスは、目の前の死肉にかぶりつきそうになる。
 レインなしで解除すれば、食人欲求の枷がなくなり、悪魔化の進行速度は跳ね上がるので禁忌とされていた。
 全て理解した上で、プラナスは黒の鞭(フラジェラム)を握りしめた。それには荊のように細かい棘が生えており、一つ一つがおそろしく良く切れた。
 周囲の異形へ軽く鞭を打てば、瞬時に細切れとなる。
 だが鞭を一閃させるごとに、プラナスの喉元には空腹という、忘れていた感覚がせり上がって来た。彼は口から流れ出る唾液を邪魔そうに拭った。
 聖歌隊の少年を貪っていた悪魔が、口のまわりを真っ赤に汚して笑っていた。
「んふふ、ずいぶん苦しそうね。お兄さん」
 蛇を思わせる金の目に、暗幕のような長い黒髪。ネイビーのイブニングドレスは大胆なスリットが入っていた。悪魔は、綿飴のようなボアが付いている扇子で今更口元を覆う。
「かわいいお顔してるのに、怒っているの? そんなに睨まれたらゾクゾクしちゃうわ。
 でもごめんね。ワタシ、子どもの胸腺しか食べれないの」
 悪魔が、ナイフのような爪に挟まった肉を弾き捨てた。
 プラナスは無言で漆黒の鞭を打ち続けた。空腹感で意識が朦朧としてくるが、異形と悪魔をどうにか広場に留める。しかし、蛇の悪魔へ中間物質を送り込むまでには至らない。
 できない、と言った方が正しかった。
 口を押さえながら、彼は必死に人以外だけを見据えていた。そうでもしなければ、逃げ惑う人間——エサに目が眩んでしまう。
 蛇の悪魔はプラナスを唆すように、逃げ遅れた子どもを引っ掴んだ。
「健気過ぎてドキドキしちゃうわ。楽になっちゃいなさいよ」
 おそろしいことに、捕まった少年は銀髪の彼によく似ていた。

 ——安心しろよ! おまえのビョーキはおれがなおしてやる! だから待ってろよ!

 その瞬間プラナスは空腹を忘れた。
「ほらほら、美味しそうでしょ?」
 無我夢中で暴れる獲物に悪魔は恍惚と舌舐めずりをする。
 だが油断しきっていたその首に、荊の鞭が巻き付いていた。
「…………その子を放せ」
 敬虔な憎悪と怒りに、悪魔は背筋を凍らせた。まとわりつく鞭にではない。プラナスが手ぶらだったとしても同じ結果だっただろう。まるで蛇に睨まれた蛙だった。
「ちょ、ちょっと、冗談でしょ。そんな事したらあんたも悪魔になるのよ! ワタシを殺したって、今度は自分が人間を……!」
 一瞬で狩られる側となった悪魔の声は、プラナスには届いていない。
 蛇の言う通り、自己解除をした上、中間物質を大量に消費すれば悪魔化は免れられない。
 しかしプラナスにとっては、もうどうでもよかった。
(この子を守れるなら、何をしてでもここを防ごう。
 たとえ悪魔になっても)
 同時に、彼は泣き虫な女の子を思い出した。
「……ごめんね」
 プラナスが鞭を構え静かに笑った。
(また泣かせちゃうね。カズラ、お願いね)
 その時、悪魔の顔面に何かが激突した。蛇の悪魔は鼻が潰れたような音を出す。
 血塗れの広場に転がったのは、カラフルな衣装の機械人形。
 それを投げつけたのは、息を切らせたアンカリアだった。
 彼女はプラナスを見ると、力強く唱えた。
「Gambir iubeo Persica 鼓動よ眠れ、在るべき鼓動を解け!」
 正規の解除により、黒の鞭(フラジェラム)は文字の形をとって、改めてしなやかな鞭となる。プラナスを苛んでいた飢えもすっと引いていった。
 さらに別の方角から光の銃弾が撃ち込まれる。少年を掴む悪魔の腕は、疾風のような黒が切り裂いた。
 アンカリアはつい顔を緩め、仲間の名を呼んだ。
「エリオット! カズラ!」
 逃げ出す蛇の悪魔は、カズラが追った。彼はついでに邪魔な異形を叩き潰して行った。
 援軍で気合の入ったアンカリアは、呆気にとられている銀髪の子どもを引き寄せる。
「わたしの後ろに居て!」
 彼女は丸腰とは思えない勇ましさだった。武器になりそうな物を探した結果、喫茶店の椅子を振り回す。足元には遠距離射撃用の人形や缶もあった。
 物理的に異形を威嚇していたアンカリアの前へ、銀の玉が数個現れた。
「目を閉じて!」
 直後に猛烈な光が散乱する。
 アンカリアに言われるままだった少年が目を開けると、黒い砂漠が広がっていた。その向こうで、銀髪の“青年”がおぞましい闇を一掃していた。
 エリオットの両手には、二丁の銃が銀色に光っていた。
「アン、武器はどうした」
 彼の珍しく低い声に、アンカリアは目を泳がせた。
「つ、使い切っちゃったの」
「……後で詳しく聞く。お前もだ、プラナス。自己解除なんてしやがって」
 エリオットの言葉は至って冷静だった。銀の飴(シルバーキャンディ)でアンカリアを援護し、銃を高速で連射する。
 しかし実際は、彼にしては荒く力任せでもあった。エリオットは憂さを晴らすように蜘蛛状の異形を撃ち抜いた。
 不機嫌な相棒にプラナスは肩を竦める。初めてカッとなるのが死んだ後なんて、と苦笑もした。先程よりも暖かい罪悪感だった。
「ごめんね」
 フラジェラムが音も無く風を切れば、群がる黒が瞬時に砂となる。正規の力を手にしたプラナスは、仲間と共に鞭を振るった。


 戦いが終わり静寂が訪れる。
 アンカリア達は懸命に住民を逃したが、何人かの遺体は、異形だった黒い砂に埋もれていた。
 彼女に守られていた銀髪の少年は、まだ彼女の側で唖然としていた。
 青年の方、エリオットがあたりを見回しながら言った。
「残りはあの蛇みてえな悪魔だけだな」
 その時ちょうどカズラが戻って来た。解除をしているので肉声である。
「逃げられた」
 彼はせっかくの美貌を苦々しく歪めて続けた。
「場所の目星は付いてる。本(カルケール)を使いたいんだけど……ねえ、その足どうしたの」
「え?」
 たしかに彼女は足を痛めていたが、気合いが災いしてか、プラナス達にさえ負傷を気付かれていなかった。
 アンカリア自身も、言われたことを理解するのに数秒を要した。
「あ、ええっと、悪魔に捕まっちゃって。ホルスターに入れたまま全部爆発させたから、でもそんなに痛くない、ん? ちょっと痛いかもしれないけど、「触るよ」っえ、え。え」
 カズラがしゃがみ、タイツ越しにアンカリアの足に触れた。
 骨ばっていつつも指の長い綺麗な手が、ふくらはぎからトントンと表面を撫でて上がっていく。
 そのままスカートの内側に至ってしまうのかと、アンカリアは、ついでに銀髪の少年も完熟の林檎になっていた。
 当のカズラは彼女を見上げることなく、膝のあたりで手を離した。
「今は止まってるけど、こんなところまで血が染みてる。大きな血管を傷つけていたらどうするんだ」
「えっ? あ、ご、ごめんなさい……?」
「後でエリオットに診てもらって」
 すくっと立ち上がったカズラは、淡々と続ける。
「この足じゃ追跡は無理だ。プラナスも無理はしない方がいい」
 それを見ていたエリオットの顔にはどいつもこいつも、と書いてあった。なんなら「あー、うん。たしかに先にこっちだけどな? うん」とぼやいていた。
「カズラ、無理が禁物なのはお前も一緒だろ。
 それからアン。大した量は無いがこれ使っとけ。そんな自爆する奴いねえよ」
 エリオットは銃をホルスターに戻し、アンカリアへ救急用の包帯を投げる。
 まだ精神的に戻り切っていないが、彼女はそれをなんとか受け取った。
 カズラが時計台を指差した。
「俺とエリオットで行こう。杭がある」
 夜が明けなくなったのは、悪魔が夜を縫い付ける杭を打ったからと言われている。
 杭はクチナシか悪魔にしか壊せないとされており、ガーデニアの任務の一つに、杭の破壊も入っていた。
 忠告を半ば流されたが、エリオットはそれを差し引き状況を鑑みる。
「それでもいいが……プラナスの方が安定しているんじゃないか?」
 悪魔化の兆候が出たカズラと、強制解除をしたばかりのプラナス。
 破壊任務に加え、知能を持つ悪魔の退治もある。レインの協力は不可欠であり、負傷したアンカリアよりエリオットが適任であることは明らかだ。
 問題はクチナシだった。
 しかしカズラの中では答えがもう決まっていた。
「俺はメンテナンスしたから多少は耐えられる。だけど今のプラナスじゃ、どうなるかわからないだろ」
「……わーったよ。結局お前は聞かないからな。
 悪いが、二人とも“こっち”を任せていいか」
 エリオットは眉間に皺を寄せた。決して威圧的に睨んでいるのではなく、この場を任せる心残りからだった。
 アンカリアは、頬に火照りはまだ残っていたが、迷わず首を縦に振る。
「大丈夫、行って。
 あ! カズラ、無茶しないでね!」
 その様子を見もせずにカズラはさっさと歩を進めていた。すでに彼の姿は遠ざかりつつあった。
 だが肩越しに振り返ったブラウンの瞳を、アンカリアは信じるだけだった。
 エリオットもカズラを追い、見送った彼女は一息、気合いを入れた。
「よし。やることやんなきゃ」
 アンカリアは、蚊帳の外だった銀髪の子どもにも声をかけた。
「怖かったでしょう。もう大丈夫だから、君は少し離れていてね……エリオットの弟?」
 見送った青年に瓜二つの子どもは、聖歌隊の制服を着ていた。彼は慌てて涙と鼻水を拭った。
「自分でもあの兄ちゃんすげえ似てると思った。けど姉ちゃんしかいねえよ」
「そ、そっか」
 アンカリアがベレー帽を外すと、それまで黙っていたプラナスが口を開いた。これから行うことに彼の出番は無く、気を揉む一方だった。
「大丈夫? 悪魔に捕まったって言ってたけど、怪我は?」
「足だけなの。しかも自爆だし。
 ……ねえプラナス。必ずクチナシとして蘇るなんて、可能だと思う?」
 少女の目は、凄惨な更地となった広場に固定されているが、どこか遠くを見つめていた。
 意味を図りかねたプラナスは眉をひそめる。
「どういうこと?」
「その悪魔が言ってたの。そいつには前に逃げられちゃったんだけど、わたしのことを覚えていたみたい。仲間がそういう研究をしているから、協力しろって」
 プラナスは腹の底が疼く気がした。
 ついさっきまで彼の身体に居座っていた空腹は、とうに消え去っている。しかし、もう永遠に満たされることのないそれは、尾を引くような物足りなさを残していた。
「もしできたとしても、悪魔になることには変わらない。人間が食べ物に見える“自分”に、普通は耐えられないよ。
 あいつらにしたって全員が悪魔になれば、共食いは避けられないだろうし」
「そうだよね……罠だよね」
 プラナスの方を向いたアンカリアは、きちんと笑っていた。しかし、彼女も無自覚なまま、どこか落胆の色が混じっていた。
 その時突然、銀髪の少年が駆け出した。
「リリア!」
 彼の先には、瓦礫に半分埋まり、痛々しい姿で横たわる子どもがいた。リリアと呼ばれた男の子は、銀髪の少年と同じ聖歌隊の服を着ているが、彼より少し幼い。セピア色の髪に固まった血がこびり付いていた。
 ゆっくり開かれたリリアの目は、弱々しいボルドーの光を放っていた。
「…………コぉネリあ、ス?」
 銀髪の少年はコーネリアスというらしい。
 彼を呼ぶリリアの声は、美しく滑らかに神への賛美を歌っていたとは思えない、ノイズのようなしわがれ声になっていた。
「喋んな! 待ってろ今お医者さんを……!」
 そう言って背を向けたコーネリアスは動きを止めた。彼の足首が、埋められたようにビクともしない。
 コーネリアスの足を、リリアの華奢な手が万力のように際限なく締め付けていた。
「リリ、いてえ! おい……!?」
 自分を見て涎を垂らす弟分にコーネリアスは思わず肌を粟立たせた。
 その一瞬で、プラナスとアンカリアは目を合わせ頷き合った。
「Sigillum de Persica! 仮の名に眠れ!」
 アンカリアが封印の呪文を唱え、怪物なりかけの腕は黒い鞭が引き離した。
 クチナシの保護は、現クチナシの名で一時封印を施しガーデニアまで“もたせる”必要がある。
 咄嗟に封じられたことで、血赤色の光はリリアの目へ押し戻された。
 鞭を構えたまま、プラナスは幼い同胞の側で膝をついた。タイムリミットが迫っていた。
「もうお腹は空いていないね? それにだけは絶対、負けちゃいけないよ。君はお友達を殺しちゃうし、悪魔になっちゃう」
 自分の身が危険だったはずのコーネリアスが、戸惑いながらもの仲間のために食って掛かった。
「……な、なんだよっ! リリアになにしたんだよ!」
「“仮止め”だよ」
 そんな少年を、プラナスは銀髪の“青年”と重ねた。かつて自分がクチナシになった時とそっくりな状況で、今度は彼が伝え、導く番だった。
 倒れていたリリアは起き上がりプラナスをじっと見ている。焦点の定まった赤い瞳は、おろおろと泣きなどしていなかった。
 プラナスは気丈な彼と違い、泣き虫だった自分に苦笑して続けた。
「リリアっていうんだね。いい名前だ。
 残念だけど、君は死んでしまった。そして悪魔として蘇るところだった。今はギリギリのところで保っているけど、きちんとした処置を受けなければ悪魔になってしまう。
 ボクらと一緒にガーデニアへ来てもらう。これは強制だ」
「プラナス!」
 アンカリアが叫ぶが、プラナスはそのまま背後へ鞭を振るう。彼を襲おうとした人間だった黒い化け物は、あっけなく塵と化した。
 タイムリミットだった。人間の死骸から異形が生え始めていた。今はまだ不完全なものしかいないが、そのうち大型のものも出てくるだろう。仮止めの呪文に反応する亡骸も無い。
 プラナスは緩慢に迫る闇を薙ぎ払い、リリアの腕をとった。
 瓦礫から躊躇なく抜け出した彼の足は、有り得ない方向へ曲がっていた。
「おいで、どこも痛くないはずだよ。君もこっちに」
 プラナスは絶句する子ども二人を引き連れ、足早に広場を離れる。
 人々が逃げ去った静寂に悪魔の息吹が混ざっていた。
 彼らと瓦礫の山の間で、アンカリアが膝立ちで両手を祈りを捧げるように組んでいた。タイツに赤を滲ませながら、少女の声は真っ直ぐ強く響いた。
「Flamma」
 彼女の足元から二本の光が、曲線を描いて地面を走る。それは赤にも黄色にも見え、町と分断するように広場を囲んだ。
「Sol」
 象られた円から、内側へさらに光の枝が無数に伸びる。
「Flamma……Sol……Flamma……Sol……」
 アンカリアが呪文を繰り返す。
 やがて広場は縦横無尽に張り巡らされた光で真っ赤になり、その細い一本一本の光が触発され合って火花を生んだ。
 呪文は焚き付けるように何度も唱えられ、小さな火は次第に炎となり、夜空を突き刺さんばかりに燃え上がった。
 その火柱の中で黒い影がもがき蠢いていた。
 死んだばかりの少年も、死なれたばかりの少年も、美しい地獄の業火のような光景に固唾を飲んだ。
 リリアが釘付けになったままプラナスの裾を引く。
「……あれ、なに」
 プラナスはアンカリアから目を離さず、子ども達の肩をそっと抱いた。
「蘇る前に火葬しているんだ。悪魔は陽の光でなければ倒せないけれど、まだ身体が人間なら炎で救える。
 生き返るならって思うかもしれないけど……あの感じは、誰にも味わって欲しくない」
 リリアがハッと見上げれば、プラナスの瞳は赤く照らされていた。そして、呆然と炎を凝視するコーネリアスも同じように照らされていた。
 唐突に理解してしまったリリアは静かに前を向いた。
(お別れなんだ)
 彼は燃え盛る炎に思い出を焼べるように、炎を見つめた。
「Flamma……Sol……」
 アンカリアの鮮明な呪文に煽られ、業火はさらに勢いを増すばかりだった。円の中で、熱風が悔恨や怒りを爆散させるように吹き荒れる。
 彼女の強い声が呪文の終焉を唱えた。
「Libera!」
 その声に合わせて火柱は一際激しくなり、魂を無理矢理剥がすように天高く燃え上がった。何も知らない住人なら、世界の終わりと見紛うだろう。
 炎は爆発のように一瞬強まったが、役目を終えると熱風も連れて大人しく消え去った。
 円の中には、煤だらけの物体が無数に転がっていた。


 □■□


 夜を縫い付ける杭は、中間物質に似たものでできているとも、異形を固めてできているとも言われている。どちらにしろ疲弊した悪魔を癒すものだった。
 誰も訪れない大時計の真上、町で最も高く寒い場所。
 満身創痍の蛇の悪魔が、杭を目前にして串刺しにされていた。胴を貫く黒い大剣は発電器官も破壊し、光の銃弾をくらった四肢では、元に戻ろうと闇の繊維が蠢いていた。
 だが悪魔にとっては、剣を突き立てたまま見下ろしてくる、ブラウンの瞳がなによりも癪だった。
「アナタ達、不思議に思わなかったの? リーダークラスのワタシに何の特性も無いって」
 発電器官は壊された悪魔だが、剣を折るくらいの力は残っていた。右足を集中して治しながら、またあわよくば動揺を狙い、反撃の隙を窺う。
「教えてあげる。ワタシは眷族化が最速なの。今頃アナタ達のお仲間は食われてるかもね。特にあの女の子……」
 一瞬でいい。わずかな隙さえ生まれれば悪魔の勝ちだった。
 しかし、肝心のクチナシは眉一つ動かさなかった。それどころか、カズラは剣を押し込みさらに悪魔を抉った。
「何してるのエリオット。早く唱えて」
 うっとりするような美声には一片の容赦もない。
 我に返ったエリオットが本(カルケール)を開き、悪魔は吸い込まれ始めた。
 蛇の目は大きく見開かれる。今日のクチナシには悉く驚かされ、理解ができなかった。足掻きも含めタガが外れたように叫んだ。
「それでも仲間!? ワタシだってもう少しマシよ!
 笑っちゃうわね、悪魔より冷徹! 悪魔より悪魔らしい! 中途半端な兵器!」
 悪魔が糾弾しながら蹴り上げようとすれば、エリオットに銃で撃たれ、艶やかな脚は本の中へ先立った。
 カズラは心底軽蔑した目をしながら、声は諭すように甘かった。
「教えてあげるよ。
 一番心配いらないのが、一番弱い彼女だ。例え光が尽きても、殺されそうになっても決して諦めない」
 その瞬間、彼の背後に闇夜を照らす炎の柱が立ち昇る。空を突き抜け魂を導く業火だった。
 悪魔が最期に見たものは、その炎に照らされ弧を描く唇だった。
「ほらね。悪魔になんて絶対に屈しない。
 ……聞こえてないか」
 ふう、とカズラは砂を払うように漆黒の剣を一振りした。
「カズラ」
「何? エリオット」
「……いや、なんでもない」
 言い淀んだエリオットは、悪魔を封じた本を閉じた。
(なんでそれ、ちょっとでも本人に言ってやらねえんだか。髪まで捻くれてるからか?)
 エリオットは小さくため息をつき、自分の中で完結させた。
 一方で、カズラはとっくに次の仕事に取り掛かっていた。
 彼が宙に向かって剣を振っていると、金属がぶつかるような音と共に、黒い柱が現れる。
 クチナシの武器や悪魔と接すると姿を見せる、それが“杭”だった。円錐形の先端は、時計台の屋根を突き抜けている。
「杭は多分、機械仕掛(カラクリ)の中だ。降りよう」
 二人は大時計の上から、歯車がぎゅうぎゅうに詰め込まれた屋根裏部屋へ降りた。行きは悪魔を追って素通りした場所である。
 本来そこは技師しか入ることはできなかった。埃っぽく、油の臭いと機械の回る音がぬるい空間にひしめいていた。大掛かりな部分もあり、巻き込まれたら挽き肉になることが確定する。
 そんなことはお構い無しに、カズラは大剣を軽く振り回していた。しばらく続けると金属音が狭い部屋に響いた。
「あった」
 杭は、仕掛けの奥まった場所で回る小さな歯車から伸びていた。そのパーツだけ妙に年季が入っており、他と錆び方や色が異なっている。
 躊躇無くそれを粉砕しようと剣を構えるカズラを、エリオットが止めた。
「待て。時計を止めてそこだけ取ればいいだろ。壊れでもしたら大混乱だ」
「……杭は古くから存在してきた物に打ちつけられている。多分これも重要な、代々触れることを禁じられてきた歯車だ」
「そこまでわかってんなら尚更だろ」
 エリオットが止めるも、カズラはいつか誰かに教えられた、手を額につけ日差しを避けるような——敬礼というものをしてみた。
「交渉よろしく」
 そしてカズラは、機械の心臓部を粉砕した。
 黒い円錐が反動を受け飛び上がる。
 夜空は、わからない程度だが、少しだけ明るくなっているだろう。
 しかし間髪入れずに、大時計が今にも崩壊しそうな不協和音を奏で始めた。
 エリオットは額を押さえ、ため息をついた。
「事後報告か……」
 やってしまったことは仕方がないので、彼はカズラをクチナシに留める呪文を唱えた。
 黒い大剣が文字となってカズラの首へ染み込んでいく。
 それを眺めながらエリオットは納得したが、これはこれで面倒だった。
(たしかに先に連絡しちまって、杭だけ壊してくれと泣きつかれてもな)
 カズラはそんな彼の苦悩など素知らぬ風で、さっさと階段を降りていった。
 頭痛を覚えながらも、エリオットも管理所へ向かうべく続こうとした。そこではたと足を止める。
(悪魔を癒すなら、デミや本で壊せるんじゃないのか? 悪魔側の物質ってことだろ。クチナシの消耗が激しいから、縫い付けている物を破壊しているだけで……。いや、打撃ではあるがアンシスと接触しても何の反応もしなかった。
 杭を構成している物質は、何だ……?)
 その時、歯車が外れる音が耳をつんざいた。現時点で二つ、三つ、刻々と部品が落ちていく。
 エリオットは思考を放り投げ、階段を駆け下りた。

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